大 会・例 会 要 旨

発表要旨

2009年度秋季大会


【研究発表】

時代に煩悶あり ――『獨歩集』『運命』論――
木 村  洋

 國木田獨歩の評価の劇的な転換は、明治後期の文壇の重要な事件の一つとしてよく知られている。獨歩の小説は、日露戦争以前、尾崎紅葉の率いる硯友社小説家の活躍や家庭小説の隆盛の中にあって一向に省みられなかったが、しかしその後、旧作を集めた二冊の作品集、『獨歩集』(一九〇五年)『運命』(一九〇六年)の刊行を契機として、自然主義の最たる達成として評価される。いったい何がこのような冷遇と厚遇をもたらしたのか。またこの評価の変転は、小説という形式に関する、いかなる認識の到来を意味するのか。
留意したいのは、「煩悶」という主題が生起していく文脈である。獨歩は早くから社会的に望ましい生のあり方に充足しえないゆえの「煩悶」を問題化しており、この「煩悶」への関心と小説創作の結びつきこそが獨歩の試みを同時代的にも特異なものにしたと考えられる。この見通しのもと、『獨歩集』収録作品の一つ、「牛肉と馬鈴薯」(一九〇一年)を取り上げる。この作品は、後年に獨歩が「『牛肉と馬鈴薯』(自分の書いた小説)の主人公、岡本誠夫の煩悶と同じ煩悶を続けて居ましたので」(「我は如何にして小説家となりしか」一九〇七年)と語っているように、作者自身の「煩悶」を表現したものである。
 注目されるのは、この主人公、岡本の「煩悶」がいかなる方法をもって顕在化するかである。岡本は、明治倶楽部で「俗物党」たる男たちを前にして演説を行い、彼らの現実主義を拒絶しつつ、「驚く人」でありたいという願いを語る。しかし岡本はその願いを「矢張り道楽でさアハツハツヽヽツ」と自己否定し、倶楽部の男たちの哄笑の中、一人の人物が「岡本の顔に言ふ可からざる苦痛の色を見て取」るところで作品は終わる。
 岡本の「煩悶」がこのような演説の頓挫をもって示されることは、この作品の目論見をよく表そう。すなわち、ここでの主眼は、一人の男の「煩悶」の報告であるとともに、それがいかに演説体という不特定多数への語りかけに不向きであるか、いかに社会的な孤立と無理解を招くかを主題化することなのである。別言すれば、この小説は、岡本のような煩悶者にとって有用たりえない演説体こそによって活躍しうる者たち(とくに同時期の経世家や教育家)との対立関係を設定しつつ、新たな現実確認を目指した試みと見ることができよう。
 同様の姿勢は『獨歩集』『運命』の多くの収録作品に確認される。おそらく硯友社の小説や家庭小説の隆盛からの獨歩の孤立は、こうした「煩悶」への関心と密接に関わっていた。そのことは、獨歩が尾崎紅葉を難じる際に、その「煩悶」への無関心を指摘していたことからも窺われる(「紅葉山人」一九〇二年)。従来の研究によって充分な検討が加えられていないこの様相を細かく点検することによって、硯友社・家庭小説の時代から自然主義へという推移においていかなる転換が生じたかという問題に迫りたい。とりわけこの検討は、告白という、演説体とは対照的な言葉を擁護していく自然主義の展開を理解する上で重要な作業となると思われる。

視覚とカメラ ――『細雪』の写真をめぐって――
西 元 康 雅

 谷崎潤一郎のエッセイ「妹」(「婦人公論」大正一一・七)では、自作の写真を掲載するとともに、大正活映の技師たちに教えられて「現像も焼付けも大概自分でやつて居」たことが明かされている。昭和を迎えても谷崎はカメラを自ら手にとり撮影していたようで、日傘をさした松子夫人やその四姉妹を撮った写真が今日に残されている。谷崎が写真に通じていたことが、小説中にしばしば写真を登場させる要因になっていたと考えられよう。
 『細雪』もまた谷崎の写真への造詣が反映された作品である。たとえば上巻では、桜の季節になると貞之助が姉妹たちをカメラに収める様子が描かれている。そして中巻では、「芸術写真」を標榜する写真師板倉が登場し、妙子の舞姿などを撮影する。これまでにも、『細雪』の写真をめぐって言及はなされているものの、作中時間と写真史を仔細に照らし合わせることで、『細雪』を論じる余地は充分に残されている。具体的に以下の三つの視点を導入したい。
 @芸術写真が絵画主義(ピクトリアリズム)から脱却を図ろうとしていたとき谷崎は写真にまつわる同時代言説とどのように対峙していたか検討すること。
 A『細雪』の作中時間とその前後において写真界は大きな変動の只中にあり、新興写真が東西の二派に分かれ、関東では報道写真が、関西では前衛写真が隆盛を極めていた。谷崎の居住していたそばで芦屋カメラクラブが華々しく活動を展開していた。芦屋カメラクラブに谷崎がどのようなまなざしを送っていたのかを『細雪』から読み解く。
 B昭和九年に「月刊ライカ」が創刊され、同誌は昭和一二年の「月刊小型カメラ」に継承されていく。『細雪』では三台のライカ(板倉、貞之助、妙子)と一台のコンタックス(奥畑)が登場する。当時、ライカとコンタックスのどちらがよいかという論争がわき起こっていた。カメラと『細雪』の登場人物のキャラクターはどのように結びついているのかを考える。
 これらの手続きを踏まえると、谷崎が写真界の動向に敏感だったということを立証するにとどまらず、写真による表現はどのような視覚世界の表出であるかを谷崎が問い続けていたことが顕わになる。留意したいのは、『細雪』で写真が関与しないところにおいてもカメラを通したときに似た視覚世界が展開されていることである。それはファインダー越しの世界を視ているような錯覚を抱かせる。『細雪』を中心に視るという行為を考えたい。
 
太宰治と「津軽の言葉」――「雀こ」を中心に――
野 口 尚 志

 太宰治の「雀こ」(昭和一〇年)は、全編が津軽方言で書かれた小説とも散文詩ともつかない小品である。この作品には「井伏鱒二へ。津軽の言葉で。」という献辞が付されているが、作者が津軽の出身であることと、「津軽の言葉」で書くことの間は、どのような経路でつながれているのだろうか。東郷克美氏は、一度は禁止した「津軽的なるもの」への回帰を見、大森郁之助氏はそれに対して「太宰が究極的には津軽の民俗に対する第三者として」「一つの材料として民俗現象を操作している」と反論した。立場は異なるものの両者はフォークロア的なものからの影響を論じているわけだが、それ以外の言説との関連を具体的に論じたものは未だない。
 方言に関して言えば、作品発表当時、方言研究は大きな盛り上がりを見せており、東条操や金田一京助などが学界内外で精力的に発言していた。また上方方言を用いた谷崎潤一郎を始めとして、方言を取り入れた文学作品が数々生み出されていたことは言うまでもない。しかし、作者がそれまでは忌避していたようにすら見える津軽方言で作品を書くに至るには、そういった流行への意識とも異なる、作者なりの〈再発見〉の過程があったはずである。安藤宏氏は高木恭造による津軽方言詩運動との関係を指摘しているが、それ以前に、高木の理論的支柱ともいうべき福士幸次郎が大正年間に盛んに発した〈地方主義〉の言説の影響も無視することはできまい。とはいえ、「雀こ」という作品は、福士や高木の津軽方言詩と比較して、かなり異質なものとなっている。方言詩を〈地方主義〉実践の舞台と見た福士は、口語を忠実に再現するために漢字表記に津軽方言のルビを付すという形で漢字の表意性に依存し、高木もそれに倣っている。当然ながら、その口語性は津軽出身者にしか保証されず、いわば内輪のものとなっていく。しかし「雀こ」には、口語としての方言を文字に変換した際の相克がより深刻に表れている。たとえば、一度「広い」のように漢字とルビで表記した後、二度目に同じ語を用いる際は「ふろい」と平仮名表記に変えることで、漢字の表意性を利用しつつ、口語への復帰を狙ったと思われる方法が取られているのだ。このほか、文末表現を限定し、方言に残る古語を注記もルビもなしに散りばめるなど、内輪の口語性に終始せず、他地方出身者に津軽方言を口語のまま受容させるために試みられたはずの、作者独自の苦心の操作の痕跡を見ることができる。これは安藤氏の述べる「計算された「文語体」」とも一脈相通じるが、作者がいかに生来の使用者として以上に自覚的に津軽方言に沈潜し、そこに洗練を加えたかが分かると思われる。
 「雀こ」に見られる津軽方言の用法・意味に関しては、幸い、相馬正一氏や平林文雄氏による詳細な言及がある。本発表では、それらをふまえ、作中に見られる作者の津軽方言の表記や語彙の選択の仕方を考察しつつ、それらの操作を支えていたはずの、作者による津軽方言の〈再発見〉の在り方を分析する。

大江健三郎『人生の親戚』論 ――倉木まり恵の人物像と「信仰を持たない者の祈り」について――
上 村 文 人

 『人生の親戚』は一九九〇年六月、第一回伊藤整文学賞を受賞した。選評では、「夥(おびただ)しい素材・モチーフ・情景を盛り込んで、並の手腕では書けない聖女像をえがいている」(高橋英夫氏)、というものを始め、倉木まり恵の「聖女」としての描かれ方に評価が集中していた。だが、その後の研究において、「完成された聖女からのまり恵さんのズレを描き出した作品である」(川邊紀子氏「『ヒロシマ・ノート』と『人生の親戚』-大江健三郎の〈文学的想像力〉について」)という論が提示されおり、倉木まり恵=「聖女」という受容には再考の余地が認められる。
 そこで本発表では、倉木まり恵の生涯を、戸惑いながら語る「僕」との関係性から読み直したい。語り手「僕」は、カリフォルニアの地で、倉木まり恵が「聖女」のごとく「奉仕」した歳月については語ることはない。このテクストの空隙に着目することで、『人生の親戚』を読み直し、倉木まり恵の人物像と大江文学における「信仰を持たない者の祈り」を論究したい。エッセイとの関連性を示せば、倉木まり恵の人物像には「神話的な女性像」(『新しい文学のために』所収)との、「僕」の語りへの逡巡は「信仰を持たない者の祈り」(『人生の習慣』所収)との関係が推察される。
 具体的な分析を示せば以下の様になる。『人生の親戚』は、記憶をめぐる葛藤が主題を成していて、それは入れ子型の構造を形成している。構造の内側に在るのは、倉木まり恵の、自死した息子への記憶をめぐる葛藤である。倉木まり恵は二人の息子を同時に喪い信仰に対する関心が芽生えるが、悲惨な出来事を特定の教義によって解釈しようとする姿勢に激しく反発する。外側には、倉木まり恵の言動に共感を寄せる一方、それを「自分の物語として了解できるように書いてしま」うことに戸惑う語り手「僕」がいる。「僕」は他者を領有することの暴力性に敏感な人物である。「信仰を持たない者」である二人には、教義に依らずに出来事を受けとめ、記憶することの困難さが共有されている。
 作品終盤において、倉木まり恵は病に倒れ、カリフォルニアの人々に「聖女」のように崇められながら亡くなる。その後、彼女を慕っていた友人らによって、「まり恵さんの生涯を記録するフィルム」を撮る計画が持ち上がる。だがフィルムは税関で没収され、倉木まり恵が「聖女」として奉仕した五年間も、テクストにおいて語られることはない。「僕」は、倉木まり恵=「聖女」としかねない「この五年間の奉仕ぶり」の語りを回避することで、まり恵の人物像を読者に対して多義的に提示していると考えられる。「後記にかえて」には、「いかなる意味でも信仰のない僕には」、「自分の書くものに聖女を容認することもできない」とある。「僕」の意図は、倉木まり恵を「親戚のようになった真の友・仲間として」描くと共に、倉木まり恵の生涯の「悲しみ」(=「あまりありがたくない「人生の親戚」」)に、読者の目を向けさせることにあったのではないだろうか。
 
閉じ、開かれる時空 ――大江健三郎における共同体――
柴 田 勝 二

 大江健三郎は少年期に出会った「民主主義」の理念への憧憬とこだわりを起点とする活動をこれまで持続させてきた作家として見なされがちだが、作品の表現を見る限り、それと逆行する側面が少なからず存在する。つまり初期の作品から四国の「谷間の村」が繰り返し登場することに示されるように、ムラ的な閉鎖性、排他性が作品の中心的な構図をなしていることが少なくない。『飼育』では太平洋戦争末期に谷間の村に落下した米軍機に乗っていた黒人兵が、異質な世界からやって来た他者として表象されることによって、主人公の少年たちとの交わりに神話的な彩りを与え、最終的には主人公の父親の振り上げる斧によって葬られる。『不意の唖』では主人公の父親を死に追いやった通訳が、村人の総意によって川に沈められる。代表作の一つである『万延元年のフットボール』においても、自壊的な情念に動かされつづける鷹四が帰郷した四国の村でおこなうのは、村の若者たちを集めて、在日朝鮮人の経営するスーパーマーケットを襲撃して商品を略奪することである。鷹四はその後、白痴の妹との近親相姦を告白して自殺するが、村の若い住職は鷹四の組織した行動を、村を活性化する契機として評価するのである。
 こうした共同体の排他性、閉鎖性を肯定的に意味づけようとする姿勢が、「民主主義」の理念に適うものとはいい難い。加えて一九六三年に、長男の光が脳に障害をもって生まれることで、大江は現実的に家族を庇護する家長としての性格を強め、光との共生をモチーフとする多くの作品が生み出されることになる。しかし興味深いのは、大江の描く共同体を、家族共同体としてより強く閉じさせる力として作用するようにも見える光の存在が、逆にその外側に向かってそれを開けさせる契機として機能していることだ。つまり光が障害児として生を享けたことは、父親である作者に、現実的な因果性を超えた力の存在を啓示し、この子供を通じて日常世界の外側へと繋がる回路がもたらされるからである。武蔵野台地にある塔に白痴の息子ジンとともにこもり、社会的な連関を断って生きるという、閉鎖的な生を選択した主人公が、鳥の声を聞き分ける息子に触発される形で樹木と鯨の魂の代理人となって、自然世界との回路をもつ『洪水はわが魂に及び』はその典型である。成長した光を描く『新しい人よ眼ざめよ』も、光を中心とする家族の様相を描きつつ、光の存在が喚起するウィリアム・ブレイクの言葉を鍵として、日常的な世界がその彼方の世界へと開かれていく作品であった。
 こうした、限られた共同体が閉じられつつ開かれていくダイナミズムが大江健三郎の世界の魅力であるといえる。この構造の独自性を、主要作品を辿りながら捉えていきたい。
 


【シンポジウム 〈複数言語〉の明治】

もう一人のお伝 ――菊池三渓「臙脂虎伝」について――
福 井 辰 彦

 周知の通り、上代以来日本の言語と文学は、中国語および中国文学の極めて強い影響を受けながら形作られてきた。漢詩文の存在を無視して日本語・日本文学について語ることはできない。それは明治期についても全く同様に言えることである。近世の中頃、古文辞派の登場によって儒教の道徳主義から脱した日本の漢詩文は、近世中期に入ると日本化・大衆化され、日本人の生活・風俗や思想・心情を表現する主要な文学様式となってゆく。そして、明治期に入り、漢詩文が近世以上に流行したことは、新聞各紙の漢詩欄や多数の漢詩文専門雑誌の存在を想起するだけでも十分理解されよう。漢詩文は〈複数言語の明治〉を構成する重要な一要素であった。しかし、近代の漢文学について本格的な研究がなされるようになったのは、ここ十年ほどのことに過ぎず、その実態はまだ十分に解明されてはいない。
 本発表では、明治漢詩文の特質や可能性の一端をうかがうよすがとして、菊池三渓「臙脂虎伝」を読み解いてみる。
 三渓は紀州の人。藩主慶福が十四代将軍に就任したのに伴い、和歌山藩儒から将軍侍講となるが、戦争に巻き込まれ致仕。維新後は専ら文人として活躍。成島柳北らと併称され、特に開化風俗や稗史巷説に材を取った漢文の名手として人気を博した。「臙脂虎伝」は仮名垣魯文の毒婦もの『高橋阿伝夜刃譚』(明治十二年刊)を漢訳したもの。三渓の漢文小説集『本朝虞初新誌』(明治十六年刊)に所収。新日本古典文学大系明治編三『漢文小説集』に、池澤一郎氏による注釈が備わる。
 「臙脂虎伝」と『高橋阿伝夜刃譚』を比較してみると、三渓による漢訳の特徴が浮かび上がってくる。
 三渓漢訳の基本的な態度は、原作の構成・表現にできるだけ依拠しようとするものである。物語の原型を大きく逸脱・改変するような個所はほとんど見られないと言ってよい。
 しかし一方で、原作との異同も少なくはない。
 構成上の異同については、すでに池澤氏が詳しく指摘している。余りに煩雑な設定や記述を簡略化したり、物語の展開上さほど重要と思われない枝葉の部分を省略したり、といった場合が多いようであるが、改めて検討を加え、そこに働いた三渓の選択とはどのようなものであったか、考えてみる。
 また、表現上の差違にも注目する必要がある。魯文の文章を漢文に訳す際、両者の表現が必ずしも一対一で対応し得ないことは自明であるが、言語・文体の相違という理由だけでは説明できない違いが見られる個所がある。たとえばそれは、お伝が夫波之助を殺害する場面である。そこでは三渓の筆は明らかに訳の領分を越え、魯文とは異なる、いわばもう一人のお伝の像を描き出そうとしているようである。
 以上の検討から、三渓の漢訳がどのような意図や意識のもとになされたものであったか考察する。また、明治という時代をどぎつく反映した魯文の毒婦ものという、漢詩文の伝統とは相容れない作品を、三渓の漢文はどの程度消化できたのか、異質な文体・題材との接触は漢文に何をもたらしたのか、考えてみる。
 
〈調和〉への挑戦 ――尾崎紅葉の小説文――
馬 場 美 佳

 テーマ「〈複数言語〉の明治」について、この〈言語〉という語彙が、まさしく漢語を用いた翻訳語であるという意味でも問題になるのだろう。たとえばその発音が、幕末・明治前期にはゲンギョ・ゴンゴだったものが、明治後期・大正期にかけてゲンゴへと統一されていく。その過程において、音声による伝達言語を指す概念よりも広い概念を持つ語が-tongueよりもlanguageが-優位となり、いわば訳語に対応する原語の力関係が変化したことが推測されるのであり、また、この間に国語の学としての言語学が登場したことも興味深い。要するに、〈複数言語〉とは、各国語というだけでなく、成立しつつあった“国語”や、音声言語・書記言語をも内包した複数性を意味するともいえ、明治はこのことをそれぞれの書き手たちが意識せずにはいられなかった時代であったといえる。
 たとえば坪内逍遙の『小説神髄』(明治一八年)は、小説作法を記した下巻において文体を取り上げているが、それはサンプルであると同時に、当時の小説家を目指す者たちに対し、文体が、単に選択されるものではなく、まさに和・漢・洋それぞれの文脈や雅語俗語等をどのように用いて何を表現するかによって個々に創造されるべきものであることを示唆するものでもあったろう。複数の〈言語〉によって、何が表現できるのかは未知数だったといえる。
 そこで今回検討したいのは、あくまでも小説の文にこだわり、明治二〇年代の文壇をリードした尾崎紅葉である。初期の『二人比丘尼色懺悔』(明治二二年)では〈雅俗折衷体〉や〈談話体〉の改良をめざし、以降、新聞メディアにおいてたえず文体を変化させながら小説を発表していく。そして紅葉は、「二人女房」(明治二四年)から言文一致を試みはじめ、「多情多恨」(明治二九年)でのデアル体の使用によってそれを完成へと導いたともいわれる。しかし、「多情多恨」とそれ以前の言文一致の小説との間には構文上の大きな違いがある。語彙だけでなく、構文そして文法(文典)が重要なのは、和文脈そのものではなく、また欧文脈そのままでもない、新たな文の論理を生み出すことにつながるからである。従って次の「金色夜叉」(明治三〇年)について、〈和漢混和体〉ゆえに口語文体成立史から後退しているとみえても、そのことと小説文として何が達成されているのかはまた別であり、必ずしも反進化の物語に縛られる必要はない。紅葉の弟子・小栗風葉は、師が和・漢・洋の文脈の〈調和〉をめざし、それに苦悩していたことを伝えている。ここには、明治の〈言語〉観ゆえに成立した小説のあり方が見出せるのではないだろうか。以上のような観点から、紅葉の小説、ひいては明治の文学が、何を読むよう要請していたのかを考える手がかりを得られればと思っている。
 
 
『米欧回覧実記』に流れる複数の言語態
ロ バ ー ト ・ キ ャ ン ベ ル

 岩倉使節団の公式記録として知られる『米欧回覧実記』(以下『実記』、明治一一年刊)は、具体的にどの程度「公式」的であったのか、実は分かりにくい。使節団の出発より先に企図され、復命後も久米邦武を中心に報告の制作部隊が政府内に設置されたが、執筆自体は、公表される目処が立たないまま、約一年のあいだ久米一人によってなされたのであった。政府刊行物としての出版が軌道にのり、成稿もようやく最終段階に入った段階で久米は凡例に当たる「例言」を認めた。読むと、使節団が「固リ操觚ノ士、雲水ノ客ガ、意ノ適スルニ任セ漫游シ、耳目ヲ快クスルニ異ナ」る国家主導の営為であり、したがって『実記』の編集も、「即 公務要件ノ一ナリ」等と公共性を強調している。「操觚ノ士」とは文筆家、近世期に言うところの文人であり、当時の活字メディアでは「操觚者」などと揶揄されることもあるが〈『仮名読新聞』明治一〇/四/九〉、「耳目ヲ快クスル(悦ばせる、楽しませること等)」云々とあわせて、文人たちの旅行や芸術鑑賞などを語る際に常用されるタームであった。久米は「例言」のなかで私的、あるいは主観的な観察行為とそれをめぐる叙述を否定し、普遍的な国民啓蒙をめざそうという意味合いにおいて、従来の漢文脈をシャット・アウトするかのような宣言を行っている。
 しかし一方、形式の上では公的集団による「報告書」という体裁を取りながら、『実記』の本文を繙くと豊潤な自然描写があり、強烈な個性に裏打ちされた社会批判や読者への叱咤などが横溢している。
  嗚呼此開明ノ際ニ当リ、鎖国ノ宿夢ヲ醒シ、世界交際ノ和気ニ欲センコト、我日本ニアリテハ、皆人喫緊ニ心ニ銘セザルベカラザルナリ…
(第二〇巻「波士敦府ノ記」)
  余[私]曾テ薩隅ヲ経テ、肥後ニ入リ、米良ノ山ヲ望ミシトキ其景況ノ此ニ似タルヲ回想スルナリ…
(第八〇巻「墺地利道中並維納府ノ総説」)
 上記のように、自らが書き手としての姿を随所に残している。「例言」で約束された公的視点、たとえば大使の身体に添っていわゆる非人称に近いナレーションを組み立てるという姿勢とは、相反するかに見える痕跡である。「公務要件ノ一」に近づけるために久米がもっとも苦心したのは、近代的公務をささえる「報告書」の普遍性と、自らが主体の、漢文脈にもつながる語りとの調和をどう取るべきかであったと考える。二つの視点が交差する意味においても、『実記』が明治初期の文学言説を考える上で極めて興味深いテクストであったと言えよう。本発表では、刊本『実記』に加えて、複数ある自筆稿本と写本類を取り上げ、久米がどのように「公共性」を獲得しようとつとめたかを検証したい。

アイデヤルの挑戦
青 木 稔 弥

 『当世書生気質』の第十一回、「最も恐ろしきは架空の恋」「アイデヤル〔架空的〕の恋情」であると「洋語まじりにつぶや」いた小町田粲爾は、友人の倉瀬蓮作に対し、「僕があんまりアイデヤルだもんだから。時々妙な妄想を興して。西洋思想を日本の社会へ。fallaciously〔馬鹿気た具合〕に応用するから。それで失策をすることがあるんさ。しかし此弊は僕ばかしじやアない。日本全体がさうだ。君なんぞも矢張さうだ。」と言う。「アイデヤルとは世の中に行はれさうになきことを現に行なつてみたく思ふ癖をいふ仏のウビクトルユウゴウ翁なども政事上の事に関しては頗るアイデヤル主義なりと云々」との注が付されており、第三回でも「アイデヤリズム〔架空癖〕」とあり、その注には「架空癖とは昔の小説や草冊子にあるやうなる世の中にありそうにもない事を実際に行ふて見たく思ふ癖をいふなり」とある。作者自身により「当編の小町田の如きは。一個の見すぼらしき神経質なる。未練の少年に過」ぎない(続編予告)とされているにもかかわらず、「ネルウバス〔神経質〕」「ネルウバス〔苦労性〕過る」と評された小町田の「架空の恋」は、結ばれそうな雰囲気を醸して「第二拾回 大団円」を迎える。
 「西洋思想を日本の社会へ」どのように「応用する」かは大きな問題で、「早稲田文学」第三号(明治二十四年十一月十五日)に掲載の「時文評論」欄「外国美文学の輸入」(坪内逍遙『文学その折々』に再録)は「如何なる天禀の才と雖も緒を得ざるうちは発くこと能はざるものなり」「才ある者ヒントを得ば豁然として悟る所あるべし」「外国美文学の翻訳はこれが導火たるに余りあるべし」と述べる。従来の日本語で表現できない「西洋思想」は数多くあり、「翻訳」が困難なものについては、カタカナのまま、あるいは注釈的言を付して「輸入」せざるを得ないということであろう。
 もとより「書生社会に行はるゝ駁雑なる転訛言葉」(第一回)は「洋語まじり」だけではない。「上方の生にありながら態々土佐方言などを真似る者あり」(第一回)で、「越後新潟の生れ」の倉瀬は「已に七八年。東京にありしゆゑ。最早故郷の方言は。大概なほりたり」(第三回)であった。『当世書生気質』には、関東対関西、もしくは中央対地方の異言語交流が描かれており、「いらつめ」第二十一号(明治二十二年三月十五日)所載の琴水女史「都の花第七号中大槻如電居士の無花果双紙」において、「これまで日本人の小説家で上方語を使ツた人は(大坂の新聞小説は格別)自分が知ツて居る内では春の屋君のみです。しかし、すこしも間違は無い」との評価を受けている逍遙なのである。
   逍遙の〈複数言語〉への挑戦を、小説家時代を中心に、具体例を挙げて考察する。


シンポジウムの主旨
 明治期における言語・文学の状況の特質のひとつは、多様な言語が互いに葛藤しつつ、共存もしくは併存したことである。伝統的な日本語と擬古文及び漢語・漢文に西欧語・西欧語文が流入し、翻訳語の媒介となった中国語の存在やそれらを踏まえて、口語文体創出の試み、新聞における普通文の創出があり、文学作品はこれらの言語や文章をめぐる状況の中で書かれていった。また、西洋文学が大量に訳されるだけでなく、日本の文学が西洋語に初めて翻訳・紹介されるという状況のなか、翻訳の文体・思考が作品の言葉にも影響を与えた。
 一例を挙げれば、森鴎外はドイツ語やフランス語を原語のまま取り入れて作品を表現している。このような文学表現において、複数の言語がどのような関係にあるのか、そして、これが、どのような文学上の問題を有しているのか、それらの問題を、できる限り多角的に検討してみたい。それにより、文学が複数の言語から成り立ってきた、日本古代から現代に至るまでの言語と文学のあり方が解明できるものと思われる。
 今回は、このような問題意識のもとに、発表者各自に具体的な事例を挙げていただき、その上で討議をして問題を深めることとした。
 
運 営 委 員 会


2009年度11月例会


【特集 文学にとってのスポーツ】

登山家のモノローグ――小島烏水『日本アルプス』第一巻の反自然主義的文学論と紀行文の考察―
熊 谷 昭 宏

 明治の代表的な紀行文作家であった小島烏水は、山岳会(現日本山岳会)の設立を宣言した「山岳会設立の趣旨書」(高頭式編『日本山嶽志』別冊附録博文館 明治三九年)において、「欧州アルプスの如きは、科学、文学、芸術、諸方面研究の中心点となり、最高級となり、詩人バイロン、ワーズワース等も之を踏破し」と述べている。本発表は、近代登山と〈文学〉との関係の在り方を、烏水の『日本アルプス』全四冊(前川文栄閣 明治四三年〜大正四年)、特にその第一巻に収録された紀行文と文学論の分析から捉え直そうとするものである。
 『日本アルプス』第一巻には「自然描写の芸術」、「自然と作家」という芸術論が収録されている。これらの芸術論には、明治四〇年前後の自然主義文学論を強く意識した文学論が随所に展開されている。烏水が繰り返し論じるのが、「自然」と「人間」との関係である。そこでは、山岳の崇高な美に対した「人間」による「癒し」にも似た「内省」と「塵埃」にまみれた都会の人間関係とが対置される。烏水は文学で前者を描く必要性を説く。この主張は、明治三〇年代末から「自然文学を起こすの議」(『白鳩』 明治三九年四月)や「紀行文小論」(『文章世界』 明治四〇年一二月)等でたびたび明らかにされたものでもある。一方、「創作」である紀行文「白峰山脈に入る記」や「白峰山脈縦断記」には、登山の〈いま・ここ〉から乖離していく独特の思索が所々に挿入されている。このような思索は、崇高なる大「自然」に対面することで引き出されるモノローグとして描かれており、昭和初期の藤木九三らの「山岳文学(小説)」に継承されていくものでもあるだろう。このようにして見出された「自然」と「人間」との関係が、実際の影響力は別としても、自然主義的なるものへのひとつの異議申し立てとして用意されたことには注意すべきであろう。
 また『日本アルプス』第一巻には、一見「癒し」とは対照的と思われる「勝負」(競争・闘争・征服)に関わる比喩がそこここに認められる。明治四〇年代は山岳会会員らによる日本アルプス「探検」(初登頂はほとんどない)の黄金期であり、山岳踏破の記録をいち早く整理し紀行文という形式で報告することは、登山家たちにとって登ることの重要な動機づけであった。そのような紀行文で満たされていたのがこの時期の山岳会機関誌『山岳』であった。登山のスポーツ化を推進したのは、大正期に紹介された、「より困難に」登ることを目指す西洋の「アルピニズム」思想であることは間違いないが、山の旅をひとつの「勝負」として語る烏水の紀行文にも、登山を旧来の「山水探勝」と差異化しようとするまなざしを見て取ることができる。そしてそのような紀行文では、およそ名所巡りや避暑では経験することのできない、「自然」に接することで変容する身体の感覚(時に死を想像せざるを得ないような)も同時に「発見」され、語られることにもなる。
 烏水が論じ紀行文で描いた「癒し」と「勝負」に注目することによって、近代登山と〈文学〉との関係の一側面を照らし出し、反「塵埃」(=自然主義)小説的な「人間」表象の試みを見出すことができると考える。

スポーツ誌とモダニズム文学のあいだ
波 潟 剛

 雑誌『アサヒ・スポーツ』(朝日新聞社発行)は、一九二三年三月一五日に創刊され、一九四三年六月一日付で休刊するまで月二回発行された大型のスポーツグラフ誌である。同誌に一九三六年一月一日から一九四二年一月一日まで「スポーツ小説」欄が掲載された。
 きっかけはいくつかある。まず、一九三〇年代に入ると「スポーツ文芸」記事がしばしば見られるようになる。実際には「文芸」と縁がない内容もあったが、用語としては定着するようになる。また、一九三二年には年頭号から三回(一号〜三号)にわたって山上雷鳥「スポーツ小説 招かれた客」が掲載されている。これが同誌において「スポーツ小説」と銘打つ記事の初登場であった。そしてその翌年、すなわち一九三三年には、創刊一○周年で懸賞「スポーツ小説」を募集し、受賞作を断続的に掲載している。
 そして、一九三六年。この年から誌面が横書きから縦書きに変更され、読物としての性格が強化されている。婦人欄やスポーツ小説欄が設けられ、編集後記も断続的に掲載されるようになった。ベルリン・オリンピックの開催年に当たって読者拡大を意図したことは十分推測できるが、ここでいう「大衆化」の一役を担ったのはユーモア作家である。辰野九紫がこの年から随筆を多く寄せているが、彼のほかにもサトウ・ハチロー、中野実、弘木丘太、獅子文六といった顔ぶれが散見される。
 これは「大衆化」の路線変更によって、創刊一〇周年の段階では分かれていた「スポーツ小説」と「ユーモア」の区分が融合することになったのだとも考えられる。また見方を変えれば、ユーモア作家たちが旺盛な執筆活動の範囲をスポーツ誌に広げた結果だともいえるだろう。いずれにしても、スポーツ小説とともに現在ではあまり顧みられることのないユーモア小説の時代を感じさせる事実である。
 モダニズム文学とスポーツの接点を積極的に見いだし、今後の新しい研究視座を提供する中村三春氏の著書『修辞的モダニズム』(ひつじ書房、二〇〇六年)において、「新興芸術派結成の年として記憶される昭和五(一九三〇)年は、実にまた記念すべきスポーツ小説の年でもあった」(一九〇頁)という一節がある。この指摘が直接的に示しているのは、新興芸術派の一人であった阿部知二が「日独対抗競技」をはじめとしてスポーツを題材とする小説を次々と発表し、また、雑誌『文学時代』や『新青年』において「スポーツ小説」と銘打つ特集を掲載したのが一九三〇年だったという点である。
 この動きはその後『アサヒ・スポーツ』とどう関わるのか、あるいは関わりがなかったのか。発表では、これまでの調査をもとに考察を加えてみたい。

『破戒』のテニス
岩 佐 壯 四 郎

 体育会系とか、文化部系とかいうような、現在では若者文化においてフツーに使われる色分けが登場、定着したのは、一九七〇年代の後半から、バブル前夜の八〇年代前半にかけてのことだったろうか。この頃、スポーツを素材にした小説が盛んに書かれ、また、読まれた。文学作品の主題としてスポーツが選ばれるのは、そう古くからのことではなく、大正期になってからかと思われる。一九二〇年には、小林多喜二が『老いた体操教師』を、翌年には藤森成吉も『ある体育教師の死』を発表している。いずれも、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」というスローガンに集約される近代スポーツ=体育のイデオロギーを問題として取り出すことをめざしていたことはタイトルが仄めかす通りだ。もっとも、現在はスポーツに分類される剣術・柔術・相撲などを扱った作品が、それ以前にも数多く書かれているのは改めていうまでもない。また、村上浪六あたりを先蹤とする、いわゆる大衆小説が、その多くは今ならばスポーツ小説として読まれたことも言い添えておくべきだろう。だが、ケラリーノ・サンドロヴィッチ作・演出になる『男性の好きなスポーツ』の舞台が揶揄してみせたような、精神と身体の「健康」というイデオロギーに対する抗争が文学の主題として意識されるのは、やはりそれが支配的な言説として、精神と身体に君臨しはじめた一九一〇年代以後のことというべきかと思われる。
 しかし、ここではそうしたスポーツをめぐる表象の歴史を跡付けるのではなく、突出して早く、一九〇〇年代に庭球を取り上げた島崎藤村の『破戒』におけるスポーツの表象について検討していく。この小説のなかで、主人公が庭球のラケットを手にする天長節の午後の一齣は、晩秋から冬にかけての信州北部を舞台に繰り広げられる憂鬱な時間のなかでは、爽やかな印象を与える場面といっていいだろう。「体操科」は、日清戦争後の一九〇〇年から、「知育」「徳育」と並ぶ「体育」の一環として義務教育のなかに正式に取り入れられた。「庭球」はその教育課程を構成する「遊戯」の一つとして許容されたゲームの一つである。だが、この場面におけるスポーツの表象を考えていく場合に見落としてならないのは、その表象の磁場を形成した世紀転換期における社会ダーヴィニズムや、「現象即実在論」などの言説の争闘であろう。秋空を引き裂くボールの応酬が剥き出しにしていくのは、世紀転換期の西欧に猖蕨したマックス・ノルドウの『堕落論』が端的に示す社会ダーヴィニズムや、それに促されて形成された日本的心身一元論としての「心身一如」説をめぐる言説の争闘でもあるのだ。今回の発表では、心身一元論(「現象即実在論」)の枠組みのもとに「心身一如」をいい、身体の運動の齎す快楽を、「忠孝」という道徳によって統合、「忠孝」的身体にと再編成していくことをめざした嘉納治五郎の言説を中心に、対抗的な見解を提示した大西祝などにも言及しながら検討していきたい。


特集の主旨
 テレビでスポーツが放映され、試合の結果が新聞メディア等で報じられる。その一方で、子供がスイミングスクールに通い、大人はジョギングに余念がない。このように、スポーツはいまや生活のなかに深く入り込んでいる。
 しかし、このスポーツは日本において、それほど長い歴史を有つ概念や存在ではなく、明治に西欧から移入され、時間をかけて定着していった。その意味において、スポーツはいわば日本〈近代〉の歩みと深くかかわるものと言える。それゆえ、様々なかたちで文学作品のなかに書かれてきた。武者小路実篤『友情』の卓球、村野四郎『体操詩集』の体操、田中英光『オリンポスの果実』の陸上競技等、多くの作品が数え上げられる。また、スポーツは恋愛や青春といった精神性のみならず、時にはオリンピックの招致合戦に見られるように政治性をも表象する。
 文学作品において、スポーツはどのように表象されたのか、そして、スポーツは文学に何をもたらしたのか。スポーツと文学との関係や力学を考えることは、身体の作動を必須とするスポーツと、コトバ(観念)の作動を必須とする文学、いわば身体と観念の出合いや、接点を探ることであり、文学というコトバの集積とは何かをも照らし出すきわめて刺激的なことと思われる。
運 営 委 員 会

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