大 会・例 会 要 旨

発表要旨

2010年度春季大会


【研究発表】

『厭がらせの年齢』の歪んだ戦後占領期風景―うめ女の今日性―
佐々木 亜紀子

高齢社会の現代日本にあって、高齢女性はもっとも厳しい状況におかれていると言われる。経済的問題もさることながら、家族、住居、医療、介護など多岐にわたる困難が、高齢になった女性に重くのしかかる。この現状をはやくに描いた小説に、丹羽文雄『厭がらせの年齢』がある。戦後まもない一九四七年二月号『改造』に掲載され、旺盛な執筆活動を再開した丹羽の作品のなかでも特に注目された。
ストーリーは、戦後の配給制度下で、八十六歳のうめ女という女性を孫娘たちが押し付け合って争うというものである。うめ女は六十年以上前に結婚して故郷を出たのち、夫を五十三年前に、一人娘を三十数年前に亡くした女性で、地縁も血縁も薄い。この小説は高齢であることを〈厭がらせの年齢〉と呼び、うめ女を徹底的に老醜として描いた。敗戦後の価値転換で敬老精神が消え失せ、経済的混乱のもとで社会全体の扶養能力が低下した世相が露悪的に抉り出されている。
しかし戦後占領期の作品として『厭がらせの年齢』を読み返すと、その風景には欠落やひずみが多い。弟啓吉は復員せず、長女仙子の家は焼夷弾が落ちなかったという。その家に戦災者や引揚者の「割込み」もない。次女幸子の家は「焼け出され」て疎開してはいるものの、小説の後半には「トラツクで東京に」帰ってくる。焦土は描かれず、戦災傷病者、戦災孤児、傷痍軍人、帰還兵、戦争未亡人、軍人遺族、引揚者が不在の戦後風景なのである。加えて、登場人物設定にも無理が生じている。三十数年前に三十歳で亡くなったといううめ女の娘に、二十歳の三女瑠璃子がいるという設定はつじつまが合わない。また、したり顔で美濃部が語る「アメリカ風の老人ホーム」も夢物語でしかない。アメリカに「確実なその成果」があるとして、目指すべきサクセスストーリーを推奨する美濃部の口吻には、被占領国が選ばざるをえない刷り込みが読める。戦災や戦死で扶養者を失った高齢者は当時多かったはずだが、この小説は戦争被害を回避して、奇妙な歪みを生じさせてしまったようだ。
このように変形した戦後占領期の風景は、そのいびつさゆえに、現代の高齢社会をはしなくも先取りすることになった。戦時下の軍人遺族へは扶助料の支給があり、戦後は貧困対策として生活保護法、戦災孤児らのために児童福祉法、傷病を抱える帰還兵や戦災被害者らのために身体障害者福祉法などの公的支援が整備されていく。しかしうめ女のような立場の女性には、そのいずれの支援も届けられない。経済的自立能力が低く、家族支援が得にくく、居住に困難を抱えたうめ女の姿は、今日の高齢女性に重なる。『厭がらせの年齢』の二十五年後、有吉佐和子が『恍惚の人』を書いたが、そのなかの高齢男性茂造は、晩年まで有配偶者であり、離れ付きの家があり、長男と「嫁」と孫とが同居している。現代からは却って恵まれた境遇とすらみえる。本発表では、うめ女を通して、現代のそしてこれからの高齢社会について考えてみたい。

「小市民の幸福」と文学―坂口安吾と戦後社会―
大原 祐治

「進歩も反動も此の田舎に入ってくる迄には、砂地の水みたいに吸われて消えて了うのではないか」-「軍国主義を呪い、詩を愛した日本の青年」たるマチネ・ポエティックのメンバーの一人であった中村真一郎は、帰郷者「僕」を語り手に据えた一九四六年の文章で、「東京」と「田舎」との文化的隔絶について、このように語った。「地方に於ける徹底的な啓蒙運動のみが、日本を再建する」のだとしても「その困難さは恐らく凡ゆる中央の指導者たちの想像を絶している」のだ、と。実際、この一文が収められることになった『1946・文学的考察』という書物の中に満ちている、西洋文学と日本の古典に関する知識に支えられたペダンティックな教養は、確かに「地方」への「徹底的な啓蒙」からはほど遠い。一九七七年に再刊された同書に寄せた解説文で篠田一士が記すように、一九四六年の時点では「東京から離れたところにいた若者」(高等学校生だった篠田自身)に、彼らの声はリアルタイムには届いていなかった。
同じ頃、戦時中には「筆を執るよりもハンマーをふる方がいい」と書き、「文学の戦時体制は無力」(「巻頭随筆」一九四三年)と言い切っていた坂口安吾もまた、状況へのコミットメントを試みようとしていた。故郷・新潟で地方新聞の取締役を務める兄・献吉に宛てた一九四五年九月の書簡の中に見出されるのは、新聞社から雑誌を創刊するよう強く促す文言である。「今後重大な社会問題としては、失業対策として耕地問題即ち地主の土地分割という問題」があり、こうした社会問題に対する情報発信メディアとして、地方の新聞社が積極的に雑誌を刊行すべきだというのである。この提言に答えるようにして、一九四六年一月に新潟日報社は「月刊にいがた」を創刊し、安吾自身も同誌の創刊第三号に「地方文化の確立について」という一文を寄せた。そこに記されたのは、古来より虐げられ続けることによって逆説的に「日本の歴史を動かす原動力」たりえた「農民達の狡猾さ」を「地方文化」へと高めていく必然性についてであった。
もっとも、その後一躍時代の寵児となっていく一九四〇年代後半における安吾の文学的営為の中で、農村あるいは地方文化に関する問題が深く追求されたようには見えない。しかし、一九五二年に行われた中野重治との対談の末尾近く、二人が意気投合しながら積極的に対話していたのは、農地改革をめぐる話題であった。そこで安吾は、農業問題に関して「素人」でしかなかった自分には、当時まとまった提言はできなかったのだと回顧しながらも、中野に促されるようにして農地改革に関する現在の私見を語る。そして、こうした関心の延長線上で、「小説家」としての自分は「小市民の幸福」のための小説を書こうとしてきたが、いまだにその「結論がわからない」のだと嘆く。ならば、安吾は自らの小説の中で、農村あるいは地方文化といった問題に関して、具体的にどのようなことを試みていたのだろうか。この対談の中にも言及が見られる未完の長篇『火』(一九四九年)の他、「中庸」(一九五三年)「文化祭」「保久呂天皇」(一九五四年)といった、農村を舞台とした最晩年の作品までを視野に入れつつ、その可能性と限界について考えてみたい。

坪内逍遙『小説外務大臣』『内地雑居未来之夢』における小説家表象をめぐって
浅 野 正 道

坪内逍遙の小説家としてのキャリアの最末期に位置する『小説外務大臣』(明治二一年四月〜六月)は、政治の新たな表現に関する、それなりの野心をもって着手されつつも、結局は未完に終ってしまった作品として知られている。そのような結果は、作中において政治的理想を体現する役どころの才東機四郎に対して劣等感を抱く、本来ならば副次的存在にすぎないはずの小説家長後久男に途中から度を越した比重が置かれるようになり、肝心の政治的要素よりも彼の心理描写が優先されるようになるといった主題上の混乱によってひき起こされてしまったといってよい。従来の研究は、それを小説家としての筆を折る直前の逍遙の迷いの現れととらえ、劣等感から次第に心を病んでいく長後には、苦悩する作者の心情が投影されているとしてきたのであった。
本発表でも、長後を作者による、ある種の自画像の試みであるとみなす立場をとるが、しかし、従来のように、そこから逍遙の私的な内面に迫ろうとするわけではない。むしろ目指しているのは、それとは正反対に、その外部の探求、つまり、当時の逍遙が小説家として占めていた社会的位置を、いくぶん自虐的に誇張されている長後の表象から探ってみることなのだ。
そこで注目したいのは、これまで、その心情が託されているとされながらも、逍遙自身とは明確に一線が画されているとみなされてきた長後の小説家としてのあり方である。たしかに、一見すると、美に関して何の野心も持たず、また自己の立場を芸術家のそれとして正当化するすべも知らない長後の姿は、『小説神髄』の著者とは根本的に異質であるかのように思える。だが、そのように美=芸術についてのイデオロギーが完全に欠落している点を除けば、専業の小説家として、特定の政治的党派に依拠することもなく、純粋に自らの文筆の力だけを頼りに名をなそうとする長後のさまは、当時の逍遙の社会的存在様態とかなり重なり合うものだったといえる。そして、この専業作家という、世評に左右されやすい脆弱な立場こそが、大物政治家の腹心として着実に自らの地位を上昇させていく才東に対する、長後の劣等感の根源となっていたのであった。
さらに興味深いのは、そのように社会的には脆弱で、政治的には中途半端な長後の様態が、逍遙によるもう一つの小説家の表象-未来の日本社会を描いた『内地雑居未来之夢』(明治一九年四月〜一〇月)に登場する、社会から超然と身を引き離し、すべてを中立的に見渡せる立場から「天下の真象と真理を探りてこれを活たやうに描く」ことを自任する小説家菱野詞狂の姿と表裏一体をなしていたという点である。とはいえ、これはあくまでも将来において実現が期待される、理想の小説家のあり方であった。こうした理想を支えていた小説の美的価値に対する確信が揺らぎ、現在の自らの社会的位置が白々しく露呈してきたところに、『外務大臣』における幻滅に満ちた小説家表象が出現する、これが本発表で掲げたい、とりあえずの仮説なのである。

巌垣月洲「西征快心篇」について
伊 東   孝

時代の精神は、むしろ夢想にこそ反映する。このような視座において、巌垣月洲「西征快心篇」は日本におけるSFの始まりとされる。「西征快心篇」は、明治期の未来小説・架空戦記を先駆け、現代に流通する「未来の戦争」の端緒としてある。
いま「西征快心篇」を読み返すとき、次のような思いに駆られる。「未来の戦争」への志向、あるいは嗜好には、現実への批判に留まらない契機をはらんではいないだろうか。
「西征快心篇」は安政四年頃成立した漢文体小説である。著者の巌垣月洲は、幕末京都の儒者である。梗概は次のようなものだ。黄華国(日本)には欧米列強の脅威が迫っている。広東省で勃発したイギリスと清国の抗争を好機と見て、黄華国の副将軍滬公弘道(徳川斉昭に比定される)が渡洋艦隊を編成し義勇軍を乗せて出国する。清国やムガール朝を巻き込んでの対イギリス戦略を展開する。ロンドンに侵入した滬公弘道は、イギリス女王を捕虜にし、事変処理の国際会議を招集する。これによりイギリス本島はヨーロッパ諸国に分割統治され、イギリスの国体は解体された。大英帝国の版図は消滅し、ここに新世界秩序が構築されるのである。
この「西征快心篇」は幕末期においては公刊化されず、写本の形で読み継がれたらしい。戦前における「西征快心篇」への言及は、『樊〓物語』の原案者としても知られる杉浦重剛によるものや、上田駿太郎による『英国征服記』というタイトルでの現代語訳が、知られるところである。近年では、「古典SF」研究で知られる横田順彌が「西征快心篇」を繰り返し紹介し、それを踏まえる形で、長山靖生『日本SF精神史』(河出書房新社・二〇〇九年一二月)で解説がなされている。
長山靖生は次のように評価する。同時代への危機意識が産んだ作品であり、日本最初のSFと呼ぶにふさわしい性格を備えていた。特に注目すべきは、『西征快心篇』の主人公、滬公弘道が世界秩序を回復させると、領土を拡張することなく自国に戻る、というプロットである。「さかしまの黒船」は「武士の義戦」以上の「儒者の聖戦」というべきものであり、侵略的欲望を全面的に退けた無償の「聖戦」を描いたという点に、強く惹かれる。
長山のいう「聖戦」について、もう少し詳しく踏み込もう。この作品の世界観は当時の兵学思想、例えば会沢正志斎『新論』や、それらが基底としていた日本型華夷意識を批判するものであった。本編における「粗人俗士」「自尊の俗」批判は、現実世界の徳川斉昭への批判に他ならない。攘夷の発露としてこの「西征快心篇」を読んでしまう、そのこと自体が、俎上に載せられてしまう。
また、物語世界では弘道の西征のあと、このヨーロッパ各国や清国で編纂されたこの歴史的事件についての書籍が、黄華国に持ち込まれることになる。つまり、弘道の西征を儒家的道義に回収するかに見える「西征快心篇」の語りは、弘道の西征について言及する他の言説によって自らを相対化する契機をはらませている。

明治期の蕪村調、その実態―俳人漱石の可能性について―
青 木 亮 人

小説家になる以前、夏目漱石は俳人であった。特に松山、熊本時代(明治二八年〜三三年)は句作に熱中し、活字として発表された作品も少なくない。本発表はこの時期の俳人漱石が有した可能性を考察する。
現在、俳人漱石は小説家漱石の一側面と理解される場合が多く、そのため松山、熊本時代の句作経験は後年の小説形成に何らかの影響を与えたと見なされる傾向が少なくない。この先学の指摘を参考にしつつ、俳人漱石自体の可能性を当時の俳壇状況に即して把握し直すことが本発表の目的である。
松山、熊本で教鞭をとった漱石は仕事の傍ら俳句に親しみ、その評を東京の正岡子規等に仰ぐため、句稿を幾度となく郵送した。子規は評を返送すると同時に、届けられた漱石句を「日本新聞」等に随時発表し、また『新俳句』(明治三一年。子規派初の大規模な選集)にも収録する。それは子規が俳句革新運動を推進した時期に相当し、よって漱石は俳句革新を担う一人として世に知られることとなった。
ところで、現在では子規の俳句革新は次のように説明される。当時の俳壇は「旧派」(江戸後期以来の俳諧宗匠達)が占め、句は「月並」(類型と常識に頼る凡作)に陥り、旧態然とした状況が続いていた。しかし、「新派」の子規達は「写生」(眼前の実景をありのままに写す句法)を提唱し、その結果「旧派」を一掃して近代俳句を創始したという。すなわち、「革新運動(旧派否定・写生)=近代俳句の誕生」と定義されたのであった。
また、俳句革新の特徴は次のように指摘される場合が多い。「旧派」は芭蕉を崇拝したが、「新派」の子規達はその芭蕉像に対抗し、蕪村句を信奉した。当時、蕪村は俳壇で無名だったが、子規達は蕪村句に「写生」の源流を発見し、そして「新派」の御旗として称揚したという。つまり、「子規派=写生=蕪村句」というのである。
以上の先学の指摘を整理すると、「子規派の革新運動(旧派否定・写生・蕪村句)=近代俳句の誕生」となろう。では、この理解は子規派とされた俳人漱石にも妥当するのであろうか。
結論から述べると、漱石句はそこから外れる要素を多々有すると推定される。確かに漱石は子規達と交流があり、また蕪村句に親炙したことも事実であった。しかし、彼の句を実際に検討すると、従来の子規派や漱石に関する定義と異なる特徴が存在するのである。
具体的には、彼の作品は単なる「旧派」否定ではない点、また漱石句の「蕪村調」(蕪村摂取が顕著と周囲が見なした句)は「写生」のあり方と異質である点が挙げられよう。そして、この漱石句の特徴は彼個人の問題に留まらず、子規達の俳句革新や蕪村受容に関する従来の理解に再検討を迫る可能性すら秘めている。そのため、本発表は漱石句を具体的な分析対象としつつ、併せて明治期俳句革新の内実も考察していきたい。



【特集 夢の〈ふるまい〉】

澁澤龍彦『高丘親王航海記』―夢の時空、読書の時空―
武 内 佳 代

澁澤龍彦の遺作にあたる『高丘親王航海記』(「文学界」一九八五年〜一九八七年)は、「儒艮」(「蟻塚」からの改題)、「蘭房」「獏園」「蜜人」「鏡湖」「真珠」「頻伽」の七章からなる長編小説である。八一〇年の薬子の変で廃太子となった高丘親王が老境に及んで天竺へ求法の旅に出て消息を絶ったという史実に基づきつつ、人語を話す儒艮、夢を食す獏、犬頭人、鳥女といった様々な奇想天外な生き物に遭遇していくという、澁澤ならではの幻想的な冒険譚に仕立てられている。親王の旅の動機も、史実とは異なり、父平城帝の寵姫だった亡き藤原薬子が、幼少時の親王のかたわらで、彼女の「未生の卵」だと言って、「光るもの」を「そうれ、天竺まで飛んでゆけ。」と戯れに投げた〈記憶〉に発している。つまり親王は、亡き薬子との再会を求めて天竺を目指すのであり、それゆえ、秋丸、春丸、パタリヤ・パタタ姫など、道中で彼が出逢う女性たちはみな薬子の分身として現出する。
言うまでもなく、そのような喪われた起源へと遡及する旅において、天竺は非在のユートピアである。それを証し立てるように、旅程ではアナクロニズムやアンチポデスといった時空の転倒がつきまとい、「幻想的な航海記のようでいて、実際はその過半数の物語が親王の夢」(高橋克彦氏)とされるように、次第に現実と夢とが脱領域化されてく。そしてやがて、夢の中で「未生の卵」は日本へと投げ返され、親王が天竺にたどり着いたかどうかは不明のままにテクストは閉じられる。
そのような分身、反復、反対、転倒、非在、円環といったテーマに関わる著しい虚構性に彩られた本作は、これまで澁澤の「夢」「鏡」「球」「迷宮」をめぐる数々の言説に依拠して読み解かれてきた。そして、とりわけその虚構性を一つのメタフィクションと見る場合には、「自らが結局は言葉以外の何物をも指し示すものではない」(跡上史郎氏)テクストの自律性それ自体を打ち出したものと捉えられてきた。だが、文学テクストが読まれることによって全体像を確保する運命にあるとすれば、その自律性はそもそも読む行為によって保証されると言えよう。実際、「たまねぎのように、むいてもむいても切りがないエクゾティシズム」の惑溺の中で、現実を夢で補填しながら、次第に不在の薬子と非在の天竺の像を紡ぎ上げていく親王の旅のプロセスは、テクストの空隙を自らの記憶や欲望で埋め、テクストの全体像を完成させていこうとする私たちの読書体験にどこか似ていないだろうか。
本発表では、あえて澁澤の言説を離れることによって、現実と夢を脱領域化させながら航海していく親王の在り方が、いかに私たちの読書行為と重なり響き合うかについて考察してみたい。その上で、テクストにおける夢というモチーフの新たな機能を探ろうと考える。

眠らない詩人たち
宮 崎 真素美

このたびのテーマ、「夢の〈ふるまい〉」を反芻していたら、自身が向き合ってきた「荒地」の詩人たちが、「眠らない」詩人たちであったことに思い当たった。
彼らの詩作は昭和十年代初頭、春山行夫ら「詩と詩論」のモダニズムを古本で購入して摂取するようなところからはじめられた。中桐雅夫の主催した「LUNA」(「LE BAL」「詩集」)には、時にさんざめき、きらめくような、また、時にシニカルなイメジを擁したモダニスティックな作品を寄せ、そこでは、シュルレアリスムの作品群が特徴とした「夢」も描かれた。
ところが、昭和十四年あたりから、たとえば、鮎川信夫は崩壊に向かう室内の様相ばかりを描いた室内詩篇十数篇を二年間にわたって発表した。この深夜の覚醒とも言うべきイメジは、戦争体験を経た戦後の詩作において、いっそう深刻に継承されたと見ることができる。鮎川自身の「耐えがたい二重」をはじめ、三好豊一郎の「囚人」、田村隆一の「紙上不眠」など、彼らはみな「不眠」を描き、夢みない。そのなかで特異な世界を形成したのが、死者である〈姉さん〉との夢想的な交歓を描く鮎川の亡姉詩篇であるが、それも、紡がれた世界の終局において、〈黒い森のうしろ〉で眠りにつくのは〈姉さん〉のみであり、生者である〈私〉は夢想から目ざめてゆく。
彼らが「眠らない」のはなぜなのか。かつて室内詩篇の外側では、戦争をめぐる「夢」がながれていた。「海ゆかば」や軍歌が鳴り、飛行の「夢」(和田博文『飛行の夢1783-1945 熱気球から原爆投下まで』)はその内実をみるみる変えていった。先ごろ、戦時下名古屋の女子教育に関するインタビューをおこなって知った予科練をめぐる少年たちの出来事、また、同時期の飛行アンソロジーとの出会い、そして、それらと対を成すようにあらわれた少年飛行兵らを描いた詩集(平岡敏夫『蒼空』)など、自身のうちで現在連なっていることがらを、彼らの一方に置いてみたいと考えた。
これまで、彼らの描いた室内のありさまについての考察をおこなってきたが、今回は、彼らをとりまく室外の「夢」の一端に触れながら、「夢」のうちそとについて考えることができれば、と思っている。

福永・島尾・筒井、そして春樹
柘 植 光 彦

「夢の〈ふるまい〉」とは何かについて考えてみた。
ためしにネットで検索してみたら「夢のふるまい」に関する大きなウェブサイトがあった。そこでは、夢の発生や機能や意味や伝承についてくわしく説明している。これはいわば人体における、そして人体に対する、夢の作用の分析だ。
これを「人体における」ではなく「文学作品における」と読み替えてみれば、「夢の〈ふるまい〉」というテーマにつながるのかもしれない、と考えた。
私がおもな研究対象にしている戦後・現代文学においては、作家における夢の取り扱い方が、戦前とは大きく異なっている。昭和初年代に最初のフロイト全集が出版されてから、夢は無意識と関係が深いという理論が流通するようになり、戦後作家も、作品で夢を扱う場合にはその理論に影響されることになった。
さらに一九六〇年代になると、ユングの集合的無意識や元型の観念が広く紹介されるようになり、その影響を受けた作品も多く書かれるようになった。
夢を大きく取り扱う作家としては、まず福永武彦、島尾敏雄、吉行淳之介、三島由紀夫、安部公房などがあらわれ、さらに大江健三郎、筒井康隆、河野多恵子、大庭みな子、金井美恵子、加賀乙彦、古井由吉、村上春樹、よしもとばなな、笙野頼子、小川洋子など、多数に及んでいる。
ここでは、その中でも夢に対する一定の方法論をもっていると考えられる何人かの作家に焦点をあてて、それぞれの典型的な作品について考察してみたい。取り上げたいのは、福永武彦、島尾敏雄、筒井康隆、村上春樹の四人だ。
福永武彦の場合は、自分の幼年期の記憶の欠落を補うものとして、夢が扱われる。夢は「幼年」や「心の中を流れる河」のように、「河」のイメージとつなげられて語られることが多い。
島尾敏雄は、自身の実際の夢を題材にして作品化する。作品化するときの意味づけに、一定の方向性がある。「石像歩き出す」「夢の中での日常」などを取り上げたい。この際には、吉行淳之介の方法論も参考にする。
筒井康隆は、大部分の作品に、フロイトやユングの理論を応用している。「夢の木坂分岐点」「ダンシング・ヴァニティ」、また「遠い座敷」などいくつかの短編にもふれたい。
村上春樹の場合は、夢は現実世界と「あちら側」をつなげる媒体として使われることが多い。「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」や、いくつかの短編から考えてみる。村上春樹の夢の扱い方は、精神分析の理論を超えた、まさに「夢のふるまい」として見ていくことができそうだ。


特集の主旨
運営委員会

夏目漱石「夢十夜」の「こんな夢を見た」に端的に表れているように、夢は文学の一部を形成するばかりか、文学そのものともなる。
近代文学において、夢の表象はそれ以前の文学にも増して重要なものとして機能してきた。たとえば、尾崎紅葉「金色夜叉」の貫一が見る夢、宮が溺死する夢は、貫一の認識を変える力を有つものとして表象された。また、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」でジョバンニの見る夢は、夢そのものがひとつの世界の運動の表象であることを示して余りある。
文学において、夢はある種の〈ふるまい〉をしている。超現実の内容を突きつけることによって、作中人物に、現実の客体に対する認識を変容させたり、夢であることが、作中人物に自己認識のあり方を問い質したり-、これらも、作品における夢の〈ふるまい〉である。夢は、夢そのものとしてひとつの内容を有しているが、夢が内容そのものを超えてどのような〈ふるまい〉をしているのか、それを検証することは、文学というものを考える上で、新たな問題を提起してくると思われる。夢の描かれ方を通して、文学と夢の関係を探ってみたい。

2010年度6月例会


【研究発表】

反復される〈母〉の不在―泉鏡花「龍潭譚」、「化鳥」における〈少年〉―
市 川 紘 美

泉鏡花「龍潭譚」(明治二九年一一月)と「化鳥」(明治三〇年四月)には、少年による一人称の語りや〈母恋〉のテーマといった類似性が顕著に表れている。本発表は、両テクストの類似性を認めつつ、少年たちが求める〈母〉という対象とその獲得の成否、それに繋がるテクスト末尾の閉じ方に着目することによって、従来の研究で指摘されてきた母子の合一化に疑問を呈すると共に、鏡花テクスト群の〈語り〉の一考察とすることを目的とするものである。
「龍潭譚」の語り手である千里は、亡くなった「母」の「雛」として「姉」を見、更に九ツ谺に住む「うつくしき人」にもその姿を重ね、その関係に失われた愛情の充足を求めて〈乳房〉に執着する。だが、母代わりである「姉」は弟に乳房を与えることを拒み、また九ツ谺の女主人は千里に乳房を含ませるものの、「ただ淡雪の如く」と語られるように、それには実体が伴わない。九ツ谺から戻った弟を救わんと「姉」は自身の乳房に触れさせる。だが、「姉」のこの行為は彼の欲求を全的に現実化し得たとは言い難い。千里の愛情欲求は〈母〉の非在性、空虚性に起因するものであり、そもそも現実化は原理的に不可能なのだ。このような千里の個人的な体験が語られたのち、テクスト末尾に第三者的な語り手が突然、登場し、この新たな語り手によってテクストは千里の物語を封印する。
「化鳥」も「龍潭譚」と同様に少年の母恋物語と読むことができる。だが、テクスト末尾の廉の呼びかけの言葉によって、両テクストはその物語性のあり方に大きな違いを生じてくる。本作は「龍潭譚」と同様、〈他者〉に〈母〉を重ねつつも、求め得ないという同じ構図を持っている。しかし、母を亡くしている千里と異なり、語りの現在時において廉と「母様」とがいかなる関係性のもとにあるのかテクストには明示されていない。にもかかわらず、廉が「母様」を求める言葉を発してしまうのは何故か。同じような構図を持ちつつも、テクストの閉じ方の違いによって、個人的な物語世界はテクスト外部に位置する読み手へと開かれていく。
従来の「龍潭譚」論では、テクスト末の「姉」の行為は、「摩耶夫人像そのままの『母』と少年の合一」、亡母憧憬に迷う「少年の欠落感を慰撫し、その《迷い》を解消させた」等、それによって千里の母恋が成就する物語と読むのが定説となってきた。だが、「乳房」に触れているだけで含めていない千里にとって、彼の欲求が満たされたとは言い難い。
一方、「化鳥」論では、〈語り〉の時制の交錯が長年に渡って取り上げられてきた。近年では、現在の語り手が過去を語ることで、記憶の編み直しがおこなわれているとの研究がなされている。私はこのような見解に必ずしも同意するものではない。〈母〉による支配はまだ語り手の内部で処理されていないからだ。
「龍潭譚」や「化鳥」に描かれた少年は、欲求の現実化を求めて、様々な対象に転移したり、繰り返し〈母〉の物語を語ったりする。しかし、その欲求が満たされることはない。それがまた〈語り〉の反復を生むのである。本発表では、このような〈母〉の不在と〈語り〉の反復性との関わりについて明らかにしたい。

『邪宗門』の外光表現をめぐって
本 庄 あかね

『邪宗門』(明治四二年三月)の外光表現が、一八七〇、八〇年代にフランス絵画に革新を齎した印象派に示唆を受けていることは先行研究で夙に指摘されている通りだが、本発表の端緒としたいのは、これまで言及をみなかった「外光と印象」章に付された太田正雄(木下杢太郎)の序文である。
杢太郎は明治四〇年頃リヒャルド・ムウテル『十九世紀仏国絵画史』(一九〇一年)を読んでおり、「外光と印象」章序文は細部の語彙のレベルに至るまでこの著に依拠するところが多く、言わば種本とみてよい。ムウテルの著述は、明るい光線をもとめ視覚の外面化を達成した印象派の登場とその反動について記し、印象派の後の画壇では〈冷い黒灰・銀灰の趣致が殆ど其基本調〉になったと、世紀の終焉における美術の動向を〈薄暮と夜〉への傾斜として描きだしていく。これになぞらえて杢太郎の序文は記されている。
一方白秋は、「印象日録」(明治四一年一〇月)で、即時に享受していたイギリスの美術雑誌に掲載されていた油彩画、ジョン・レイヴァリーの「月夜の渚」について、〈われ等漸く外光派の詩歌に倦みたる時、この新趣ある誘惑に会ふ〉と述べている。「月夜の渚」は、ムウテルが〈ヰツスラアWhistler風の調和〉した暗い物色のなかに〈黒衣か然らずんば白衣の人が立たされた〉と表現する、〈薄暮と夜〉の絵画の典型的作と言え、これに外光派以後の〈新趣〉をみる鑑賞眼は、杢太郎がムウテルに学んだような美術史の見識を同時期に白秋が共有していたことを証している。
このことは、白秋の西洋美術思潮に対する造詣を示すに留まらない。というのは、画壇の動向に対する当時の白秋の認識と、詩篇創作とが連動している相貌がここから浮かびあがってくるためである。主に明治四一年前半の創作である「外光と印象」章と、四一年後半の創作である「魔睡」章では、ほぼ全ての詩篇において外光が入れられているが、創作月が新しくなるにつれて、その外光の性質は、〈くわと〉差し込むような昼の日光や夕日の強い光から、光度の弱い夕方の薄闇や夜の月影へと移行される傾向にあるのだ。
留意したいのは、こうした明治四一年における外光の性質の変化と、『邪宗門』における青春の主題との関りである。はじめ強い外光によって赤熱的で主我的な青春が表現されていた詩風は、明治四一年後半に、青春の終焉を見据えるような認識があらわれるようになり、それとともに、作を照らし出す外光の光度は下降し、暗くなる。これは夜へと傾斜していく一日の終わりと青春の終焉とが詩篇において重ねあわされているためと考えられる。青年や青春という主題に取り組む白秋の創作は、明治四一年には、青春の終焉へとむけて成熟していき、その表現が時代に先端的な美術思潮と関連しつつ掴みとられていったことについて考えたい。

遠藤周作の『悲しみの歌』―『海と毒薬』の罪責感のゆくえ―
郭   南 燕

遠藤周作の長編小説『悲しみの歌』(一九八一年)は、『海と毒薬』(一九五八年)の続編として発表された作品である。『海と毒薬』は、世間の人々の注目を集めて、映画化され、研究され続け、数多くの研究論文を生み出してきた。しかし、それに対して、『悲しみの歌』は、管見では、文学研究者には研究対象として取り上げられることはほとんどなく、ほぼ黙殺されているように思われる。
この小説は、『海と毒薬』の主人公勝呂の戦後における生き方を中心とする作品である。敗戦直前、誘われて大学医学部で行われる生体実験に消極的に参加してしまった勝呂は、生涯、罪悪感に苛まれながら、患者の治療に専念し、頼まれれば中絶をも繰り返している。その彼は、生体実験の参加によって、社会の正義派たちに絶えず糾弾されてきている。その結果、彼は、とうとう生きる場を失ってしまい、自ら命を絶つ道を選んだ。彼の死を見届けたのは一匹の野良犬だけである。
勝呂の心理状態、彼を追究する若い新聞記者折戸の人生観、勝呂を憐れむフランス人青年ガストンの言動、死ぬことをひたすら望む老人の病苦、そして新宿地域に出没する大学教授と学生たちの性格。これらの様々なことを複雑に絡ませて織り込んだ『悲しみの歌』は、罪とは何か、正義とは何か、罪を罰する権利は誰にあるか、自殺は罪の償いとなり得るか、献身的な愛はどのような意味があるか、人は宗教によって救われることが可能か、など数多くの問題を含んでいる。
これらの問題は、『海と毒薬』では扱われることなく、『悲しみの歌』で初めて総合的に取り上げられ、肉づけられたものである。この作品は、『海と毒薬』の提起した諸問題に回答を与えるようなものでもある。その意味で、『悲しみの歌』は、『海と毒薬』の裾野を大幅に広げ、戦後社会の人間模様を導入し、罪と罰との関係を深部までに描写したものだと考えられよう。
また、七三一部隊の生体実験や九州帝大医学部の生体実験などに参加した関係者は、多くの告白あるいは弁解を残しており、戦後、それぞれ違う生き方を選び、あるいは選ばされた。これらの現実社会の人々の考え方と生き方とを比較することを通して、文学世界のフィクショナルな人物である勝呂の持つ罪責感と死生観の独特性を解明することは必要であろう。そして、その独特性を通して、作家遠藤周作の人間観察の方法と宗教観と文学創作の特徴を再確認することにもなるのではないかと思われる。
本発表は、遠藤周作の文学における、今まで無視されがちな『悲しみの歌』の持つ文学的、宗教的、社会的な意味を検討することを目的とする。

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